陸前高田市立博物館の救援
浜田拓志(東日本大震災対策本部委員 和歌山県立近代美術館副館長)
 三陸海岸の沿岸部に位置する陸前高田市立博物館(岩手県)は、[2011年]3月11日の津波により甚大な被害を受けた。津波は2階建ての博物館を越え、6名の職員も全員が犠牲となっている。
 被災後、市博、海と貝のミュージアム関係者、市教委、県教委、県博、県内博物館関係者、自衛隊等の手によって、瓦礫の撤去作業と並行しながらレスキューされた歴史、生物、考古、民俗等の資料は、地元の旧小学校、県博、あるいは県内外の関係機関に移送された。しかし500号、300号の大型洋画作品も含む絵画83件(263点)、書71件、立体2件、計156件(336点)については、支援組織・移送先が決まらなかったため、市教委としては同館に残さざるを得なかった。
 そこで5月12日に文化庁美術学芸課が、市関係者や県教委、県美とともに同館の被災状況を調査し、5月18日に県教委から文化庁宛に支援要請が出され、文化財レスキュー事業の一環として救援活動が開始された。全美東日本大震災対策本部、救援委員会事務局、国立美術館、県教委、市教委、県美の各担当者が協議を重ね、調整を行いながら事業を進めるというかたちがとられた。
 海水に浸された作品は、乾燥、燻蒸、応急処置、そして一時保管を行うため、適切な場所に移送しなければならなかった。作品及びタトウには大量のカビが発生していたし、作品群の体積も大きかったため、受け入れ施設の選定は難航したが、陸前高田現地調査(6月13日)の翌日に行われた会合及び実地調査で、盛岡市内の旧岩手県衛生研究所(以下「作業所」)が選ばれた。交通の便は良く、作業・洗浄・保管・事務室に利用できる十分なスペースがあったが、10年間使用されていなかったこともあり、仮設水道配管の工事を行い、電気を引き、大がかりな清掃を行う必要があった。
 市博における搬出作業は、前日の準備作業のあと7月12日から14日にかけておこなわれた。全美会員館11館から13名、その他12名が参加した。作品を二階から一階に階段で降ろし、記録撮影し、梱包・運搬する作業は、夏場の厳しい環境のなかで行われたが、全美の日頃からの交流も手伝って、活動は良い連携を示した。作品は14日に10トン車1台と2トン車1台を用いて作業所まで移送された。
 8月9日から16日にかけて燻蒸が実施され、その後20日まで作業所の設営が行われた。照明器具や網戸、排気用プラントが設置され、県美から作業テーブルやイス等多くの機材が搬入された。施設のセキュリティは弱かったため、施設名称や場所は非公開とした。8月21日から全美の派遣職員は、保存修復の専門家、救援委員会事務局職員等と共に作業に従事した。応急処置及び作業は、処置前の撮影および状態記録、額等の取り外し、カビ・汚れの除去、処置後の撮影・処置内容記録、簡易梱包による仮置きといった内容であった。保存修復の専門家とは、全美会員館の修復技術者および、今回の救援事業の趣旨に賛同して参加した大学(東北芸術工科大学、東京藝術大学)および民間の修復家である。彼らは被災作品の損傷に対し必要な処置を判断し、サポートスタッフに作業及び注意事項の指示を行った。専門技術を要する作業は専門技術者が処置を行った。記録スタッフは作業記録と資材補充、連絡事務等に従事した。スタッフは5日間前後の滞在で、毎日数名ずつ入れ替わり、常駐者はなかったため、スタッフ及び関係者はWEB上のファイル等で情報共有を図った。メンバーたちのひたむきな取り組みと連携のもと、応急処置は約一か月後の9月25日に終了した。9月17日、岩手県美に油彩画20点を、9月29日には残りの油彩画及び書を搬入。作品保管に係る作業及び作業所の撤収は9月30日に完了した。本救援活動全体についていえば、全美は33館65名が参加。会員館以外も含めると全国各地から138名、延べ696人が参加した。もちろん後方支援活動を含めると参加者数はこれをはるかに上回る。
 作品がいつか地元に帰って公開される日が訪れることを、活動の参加者たちとともに願う。